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日本人の「愛国」と「自虐」

作者:步平 来源:本站原创 发布时间:2006-02-28 字体: 打印
作者:步平 来源:本站原创
发布时间:2006-02-28 打印

 

  最近、日本から送られてきた資料は、いわゆる「自由主義史観」研究会の学者たちが最近発表したものとそれについての新聞の評論でした。この文章には殊更激しい言葉遣いで、日本の歴史教科書は「暗黒史観」、「自虐史観」、「反日史観」で教育を行っていると述べられており、日本の教科書は学生に「日本歴史を嫌悪する」思想を注ぎ込み、なんと日本の学校はすでに「反日思想注入の砦」になっていると書かれています。まさか、日本の教科書が本当にそんな大罪を犯しているとは思えないので教科書を読んでみましたが、激しく攻撃されている教科書では、五十何年前の戦争の侵略的な性質を説明していますが、戦争中の日本軍隊の罪行のほんの一部を紹介しているだけでした。「自由主義史観」の学者たちの論点こそ、かえって当時の戦争の雰囲気さえ感じられ、侵略戦争の性格を正義と栄光の「大東亜戦争」だったと吹聴し、常軌を逸した好戦的な精神でアジア各国を踏みにじった「愛国」を宣揚するものとなっています。もしも私たちが、この文章の発表された時間を見なければ、五十年前に立ち帰ったのか、あるいはタイムカプセルで戦争時代に逆戻りしてしまったのではないかと錯覚します。このような現象は一体何をあらわしているのでしょう?と、首を傾げてしまいます。



戦争中の「愛国」とは軍国主義者に冒涜された観念



 「愛国」のスローガンを打ち出して「愛国主義」を宣揚することは、本来何も誤りではないし、正常な社会教育だと思います。しかし、日本は明治以来、「愛国」というスローガンは、封建的な民族主義に利用され、それが「国粋主義」と密接に繋がりました。戦争中には「愛国」のスローガンはファシストたちに乱暴に踏み付けにされ、冒とくされ、戦争屋どもの宣伝の道具にされましたが、これも又忘れてはならない歴史的な事実です。多くの日本の人はまだあの戦争中に叫ばれた人心を惑わすスローガンの数々を覚えているでしょう。



 「胸に愛国、手にハンマー」、「一人一心が御国の柱」、「一億一心、火の玉」、「伸び行く日本、明け行く世界」……。心ある日本人なら、戦争中のこのような「愛国」的スローガンが日本人民を突進する侵略戦車に縛り付ける手段であり、戦争の指導者たちが、人々を天皇中心の「大日本」に忠誠を尽くさせ、無条件に日本が発動した侵略戦争に駆り立てたことを知っている筈です。ここでいう「愛国」とは、戦争気違いたちに操作抑制された「軍事帝国」を守り愛することです。



戦争中の「愛国」はどんな結果を作り出したのか?



  あの侵略戦争を発動した人々が「愛国」というスローガンに隠れて何をやったのでしょうか?日本の若者は「愛国」の宣伝に踊らされて皇軍に参加し、皇軍兵士たちは「愛国」のスローガンを叫びながら隣国の領土に踏み込み、アジアの国々に経済的な衰退と資源の巨大な損失をもたらし軍国主義者の「愛国」の欲望を満足させました。つまり、アジアの何千万という一般住民の死傷はこれら戦争屋どもの「愛国」の代価なのです。ある者はこれを弁護して「戦争は、交戦国と交戦国の人民にあのような残酷な結果をもたらしたが、これは決して珍しいことではない」と言います。では、戦争は日本にどのような影響を与えたのでしょうか?「愛国」を振りかざした戦争屋どもは310万人もの軍人?軍属及び一般住民の戦死や病死を作り出したではないですか?そして日本の工業生産能力は戦前の半分程になってしまいました。このように重大な歴史的罪を犯した者たちが一片の反省もなく、その責任を追及する人たちに反対し、かえって戦争を美化して「愛国」の精神的な支えにするとは、私には「自由主義史観」を唱える者たちの考えが全く分かりません。



 私は、以前読んだ沖縄戦の資料のことを思い出しました。沖縄戦ではあんなにも大勢の日本人が死にましたが、その大部分は戦いで死んだのではなく、いわゆる自決だといいます。だから、死亡した日本人の中で、実に沖縄本土の出身者は三分の二以上に達し、しかもその中の多くは一般住民だということです。今になっても多くの日本人は沖縄と聞くと、戦争末期に日本軍人の命令の下に行われた大災難を連想するといいます。



 私は、当時の「自決」が、いわゆる「愛国」という名の下に行われたことを知っています。もしも今日、この人道を無視した「愛国」行為を再び宣揚するなら、その人は気がおかしくなったのではないかと思います。私はかつて一枚の写真に強烈なショックを受けた記憶があります。それは、大きな目をした愛らしい女の子の写真で、細い首に包帯を巻いており、その腕には血痕が着いていました。まだあどけない目に恐怖と不安が見て取れました。つまり、この子は、「自決」の時に自分の同胞から切られたのですが、幸せにも生き残ったのです。「自由主義史観」の提唱者の理論によれば、「自決」の勇気がなかったのか?或いは「自決」の時に逃げ出した者ということになり、非「愛国」者と、されるのでしょうか?もし、そうなら私はこの沖縄の子どもがかわいそうでなりません。



 私は、聞きたい!



 「あなたたちのいう、日本人の若者が愛し愛される国とはどのような国なのですか?」まさか、あの戦争の時の「軍事帝国」ではないでしょう…?



  私は、広島の原爆資料館を参観した時の印象が忘れられません。原子爆弾が爆発した瞬間のあの悲惨な一幕一幕をも…。子どもが学校への道で倒れ、母親は火の海の中でもがき苦しみ、人々は泣き叫び、放射能が更に多くの住民の命を奪ったのです。私は、あれらの「愛国」を鼓吹した人々もやはり原子爆弾の危険性と恐ろしさを宣伝していることを知りました。日本人民の原爆に対する恐ろしさが原爆を落とした者と国家に対する恨みを引き起こし、更には原爆を所有している国に対する批判と恨みにもなりました。



  が、しかし、私は、原爆によって引き起こされたこれらの悲惨な結果の責任は、結局のところどこにあるのですか?と問いたいのです。



  1945年7月26日ポツダム宣言が公布されてより、日本政府が戦争停止を決定するには十分な時間があった筈です。以後原爆投下までの12日間「愛国」を提唱する日本の政府要人は何をしていたのでしょう?もし、彼等が本当に「愛国」心があり、日本人民の上に思いを致すなら何故積極的に戦争を停止しなかったのでしょう?その後の、何十万人をも死亡させた責任が、あれら虚偽の「愛国」のスローガンで日本人民を騙した軍国主義者たちに無いとはいえないでしょう。彼等が勝手に決めた「黙殺」こそが、つまりは原子爆弾の爆発の根本的原因なのに、誰かがそれを戦争終結の「愛国者」であると美化しているのではないでしょうか?



  ですから、日本が戦争中に提唱した「愛国」は、数千万の生命を代償に、犠牲者の血で書き記した歴史の所産なのです。この歴史的事実が、あの罪悪に満ちた戦争が終結して五十何年も経った今日、依然として戦争中の「愛国」のスローガンをそのまま使うべきではないという教訓を残した筈です。



誰が本当に愛国者か?



 あるいは反駁する人がいるかも知れません…侵略戦争を発動した事によって、日本人は償いきれない十字架を負い、永遠に「愛国」という言葉は使えないのですか?と。私はそんなことをいっているのではありません。しかし、どんな「愛国」だって、それには特定の意味と歴史的な背景があります。それなら、戦後日本人の愛国の主題は何だったのでしょうか?



 どんな日本人でも、アジア各国に行ってみれぱ、そこの人民と政府が戦争を発動した日本に対してどんな感情を持ち、どんな態度で対応するかは分かるでしょう。日本人としては自分の実際行動によって、日本が戦争中の行動で作り上げた悪い印象を取り除くことしかありません。過去の戦争による行為に対して反省と謝罪することが、戦後日本人の「愛国」の基本的な行動であり、「愛国」の重要な表現だと思います。真面目に反省し、真心をもって謝罪し、アジアや中国の人民に理解を得ることが日本の国際的な地位を自然に高めることになり、国際的な影響力は当然のことながら増強されるでしょうし、日本の国際友人も段々増加することでしょう。これが即ち「愛国」ではないでしょうか?反対に戦争時の考えを固守し、誤った立場にたって妥協せず、依然としてアジアの人民に敵対し、日本を国際世論の批判に任せるとしたら、これは「愛国」と言えるでしょうか?



 ここまで述べてきて、私は「中国帰還者連絡会」の老人たちを思い出しました。かつて彼等が出版して世間を驚かした「三光」という本があります。この本で、彼等は良心によって戦争を批判し、戦争を発動した人々を批判し、同時に戦争中の自分の罪をも批判しました。彼等はこのような行動によって、中国の人民に謝罪して、中国人民の理解を得ることができました。私は、その中の一人の老人と知り合いになりました。彼は、1956年に日本に帰ってから既に十何回も中国を訪ねましたが、その内の何回かは自分がかつて迫害した中国人の家庭に行って直接謝罪をすることでした。中国人の家族は、初めは彼を憎みましたが、次第に彼を理解し、最後は親しい友人になりました。しかし、これをたった一人だけの特殊な行動と考えるべきではないと思います。実際、多くの中国の被害者や彼等の家族からすれば、それぞれの被害は一つ一つが独立した事件なのですから。元加害者であった老人たちの努力によって、被害者は少しずつ戦争の恐怖から解放されることが出来、恨みや憎しみの感情からじょじょに日本人民を理解するようになりました。



 中国と日本は本来は隔ての無い一衣帯水の隣国ですのに、戦争が、戦争を発動した軍国主義者と日本の狭隘な「愛国」主義が、二つの民族の対立を生み、民族間の流血を作り出しました。二つの民族の対立は簡単に融合することは出来ないでしょうが、中国帰還者連絡会の老人たちは自分の良心と行動によって、この民族間の大きな傷口を修復しました。



 「自由主義史観」の学者たち!あなた方はこれらの老人の努力が、被害国の人民の考え方までも変えたことをご存じですか?あなた方は帰還者連絡会の老人たちの行動があってはじめて、中国人民に日本人にも間違った歴史があったが、しかし、真面目にその間違いを認め、間違いを正す勇気のある者がいたことをも認識させた事実を…! あなた方はこれらの老人たちの活動をも「自虐」と攻撃しますが、彼等こそ、実際の行動でアジア人民の理解と尊敬を日本にもたらしたのですから、これこそが本当の「愛国」ではないでしょうか。



 私はもうお一人、家永三郎先生のことを思い出します。三十何年来、彼は自分の立場を堅持し、弛まず日本軍国主義の戦争中の暴行を暴露し批判し続けました。ある者は先生の観点は「自虐史観」で「暗黒史観」だといいますが、例え教科書裁判の結果が完全勝利を獲得することにならなくても、私は本当の意味で世界の人民に日本人の戦争認識と自覚を知らしめるのは、あれらの「愛国」者たちではなく、それは家永先生のような方だと思います。私が1994年先生にお目にかかった時、先生は、「戦争中の教科書は学生に対して『中国に戦争に行くのは、日本の利益を守るための愛国的な行為であり、満州で繁栄の新国家を建設することだ』との思想を教え込むものでした。私は教師として、私の学生が戦争に行くことを阻止することが出来なかっただけではなく、私もそのような観点で学生を教育したことは、今になっても心が疼きます。私たちのような戦争体験のある者から言えば、歴史の真実を後代に伝えることは、私たちの避けてはならない責任なのです」と話されたことを記憶しています。家永先生の痩せたひ弱そうな体を通して、私ははっきりと先生の世界人民に対する広い深い愛情を見、先生の正義と罪悪についての堅い信念と覚悟を理解することが出来ました。私は、日本人は家永先生のような学者が居られることを幸せに誇りに思うべきだと思います。彼は自分の行動をもって戦争が人々の心に残した傷を癒し、日本の為に世界人民の信頼と栄誉を獲得したのです。



誤りを認める勇気をもつべきだ



  或る人はこの考えに反対して「自己を否定する者は『自虐』だ、それがどうして『愛国』なのか?」といいます。…これは全く狭隘な見方です。誤りがあれば改め、誤りを改めても威信は低下しないし、かえって理解と信頼を得ることになると思います。国として、自己の歴史的な行為を真面目に厳粛に検討することは威信を高めることになりますから、即ち「愛国」であり、「自虐」ではありません。



  戦争の終結から40年後に、ドイツの大統領ヴァイッゼッカー氏が全世界に両けて懺悔し、ドイツの国民にも「罪が有ってもなくても、老若男女を問わず、胸に刻んで永遠に過去の犯罪と責任を忘れてはならない」と呼び掛けました。もし、日本がそのような観点に立ったら、これは決して「自虐」ではありません。ドイツの大統領の演説の後、ドイツの世界的威信は低下したでしょうか?ドイツの国民は民族の自信と自尊心を失ったでしょうか?ドイツの学生や若者はもう自分の祖国を愛さなくなったでしょうか?



  そんなことは、全く、否です! 日本の「愛国」主義者よ、あなた方は考えすぎです。世界の人民も、中国の人民もドイツ人が歴史的誤りを認めた勇気に敬服したし、ドイツの経済的精神的な復興は戦争の廃墟の中から立ち上がったのだと思っています。少数の極右分子の外は、誰もドイツの行き方を「自虐」だという者はいないでしょう?



  ドイツに比べると日本は随分差があると思います。何回もの戦争責任を覆い隠す言論や行動の数々は、アジアと世界の人民の反感と国際世論の批判を呼び、日本の国際的名声に大きく影響しています。これこそが「自虐」の行動と言わねばならないのに、またこれを重視しないのでしょうか?
 


  大江健三郎氏が1994年に、かのノーベル文学賞を受賞した時のことを思い出します。これは、日本が世界的に認められた最高の栄誉であることは何人も否定しないでしょう。当然これは「愛国」的行為です。大江先生のスウェーデンでの講演の基調は、決して戦争を発動した時の日本を褒めたたえたものではありません。又決して立場も不明確なままに「愛国」を宣揚したのでもありません。彼は、「……その曖昧な進み行きは、日本をアジアにおける侵略者の役割に自身を追い込みました。又、西欧に向けて全面的に開かれていたはずの近代の日本文化は、それでいて西欧側にはいつまでも理解不能の、または少なくとも理解を渋滞させる、暗部を残しつづけました。さらにアジアに於いて、日本は政治的のみならず、社会的?文化的にも孤立することになったのでした」と述ベ、更に、「愛国」のスローガンの下に、現行憲法を改めようと画策する者たちに「もし、この不戦の誓いを日本国の憲法から取り外せば…何よりもまず我々は、アジアと広島?長崎の犠牲者たちを裏切ることになるのです」と、厳しく批判を加えました。まさに、このような認識を基調にして、大江先生は敢然と日本軍隊の侵略行為に苦痛の贖罪を求める作家の隊伍に加わったのです。このような認識をもとにして、彼はきっぱりと天皇が授与する国家の栄誉を拒絶しました。まさか、だから「愛国」ではないというのではないでしょうね。否です! 大江先生は歴史を正視し誤りを認める勇気があり、世界という大きなわくの中から、日本を、世界を、人民を愛し、平和を愛しての統一行動をとることを提唱された、本当の愛国者だと思います。このような角度から大江先生の『曖昧な日本の私』と川端康成の『美しい日本の私』が日本にもたらした光栄と誇りは、同じように光を放つものだと認識します。



(ほへい中国黒竜江省社会科学院副院長)
(訳 やまべゆきこ本誌編集委員)

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